Masumi Dialogue
vol.19

ふるさと伊那谷で、
タイ料理を通して伝える
里山の豊かさを生かす知恵

これからの時代に求められる「豊かさ」とは何なのか。さまざまな分野の方との対話を通じて、答えを探っていきます。今回は、東京で長く人気だった和食店をたたみ、ふるさと長野県の伊那谷の恵みを生かした「里山タイ料理」の店を開いた三浦俊幸さんを訪ねました。自ら山へ入り、畑で育てたもので料理をする。今や全国から食通が集まる店を、黙々と一人で切り盛りする三浦さんは、どんな思いでこの地で料理店をしているのでしょうか。

三浦俊幸. Toshiyuki Miura

1962年長野県伊那市出身。高校卒業後に上京し、イタリア料理店を経てバーテンダーとして働く。その後、東京・六本木でうどん店「さだ吉」を共同経営し、のちにオーナーに。2014年から長野県で農業を始め、東京と往復、自身の店で野菜を利用するようになる。発酵技術への興味が高じて、タイへ通うようになり、2018年に長野・箕輪町に「GUUUT」を開店。現在は近隣の食材を使った「里山タイ料理」を提唱し、人気店となっている。

都会の真ん中でも、地方でも、
営むのは唯一無二の店

まだ2〜3回しか来られていないのですが、真澄のある諏訪から比較的近いところにGUUUTがあって幸せです。最近は、いわゆるフーディーといわれているような人たちが、遠くからここを目指してやってきて、「一緒に行かないか」と誘われることが多いんです。

三浦俊幸さん(以下、三浦): ありがとうございます。季節にもよるし、1回目の来店と2回目のときとでは、コースの内容も違ってくるから、宮坂さんはいろいろな料理を味わっているんじゃないでしょうか。

料理一つひとつがおいしいのはもちろん、この場所でタイ料理というのも珍しいですし、使う食材も近くの山に分け入って採集されたりしていますよね。三浦さんのスタンスがとても豊かだと感じていて、あらためてお話を聞きたいと思いました。まずは、東京でやっていた店「さだ吉」の話を聞いていいですか。東京では和食のお店をしていたんですよね。

三浦: はい。イタリア料理やフランス料理の店で働いたこともあるし、長くバーテンダーをやっていた経験もありますが、独立して開業したのは、うどん屋でした。平成10年に、友達と一緒に始めたんです。お酒を飲んだ後にうどんが食べられるようなバーができたら面白いと考えてのことでした。でも、東京はそば文化ですからね。メニューも少なかったし「もっといろいろ食べたい」と言われて、そんなにお客さんがつかなかったんです。  しばらくして、共同経営者は儲からないから手を引くことになって、店は僕が買い取りました。もちろん、そのままでは続けられないから、酒も料理も増やして、夜の7時から明け方4時まで営業することにしたんです。  そうしたら同業者がたくさん来るようになって、いろいろな料理も教えてくれて、メニューのバリエーションが増えていきました。基本的には和食ですけど、生ハムを使うこともあったし、その当時からやっぱりちょっと変なものは出してました(笑)。お客さんがほとんど入れ替わらなかったから、自分が進化していくしかない。店って、変わらない部分と進化していく部分と、両方を出していかないと埋もれてしまいます。

東京の六本木。新しい店はどんどん出てきますもんね。

三浦: 激戦区ですから、普通に戦うなら、すごくいい材料を使って、レベルの高い料理を出して単価を高くするでしょう。でも、それじゃあとっつきにくいから、自分はしたくない。今もそうですが、価格帯を1万円くらいに抑えて、何度も来られるお店にしたい。それで生き残るには知恵を絞らないといけなかったのです。

少年時代の経験が
現代のタイ料理につながる

今の店、GUUUTの料理も、三浦さんだからこその唯一無二の料理で、すごく知恵が絞られていると思います。不利な条件のなかでも、知恵を絞る、工夫するということは、子ども時代からの性分なんでしょうか。

三浦: 多分そうですね。今63歳で昭和40年代に長野の伊那で子ども時代を送っていますから、体と頭を使って遊ぶのが当たり前。工夫したやつが一番楽しめる環境で、僕は、そうやって遊ぶのが得意でした。子ども時代に野山で遊んだ経験がなかったら、今の仕事はできていないと思う。子どもの頃に山にあるものを見て、採って食べている経験が役に立っています。  自分の周りにあるもので料理していく。それがタイ料理とうまくリンクしたんです。今でもタイには、昭和30〜40年代くらいの日本の食生活がそのまま残っているように感じます。午前中に山へ入って、採取したものを持って帰ってきて、みんなで仕分けして、仕込みして……僕の子ども時代には、みんなやっていたことです。

子ども時代に、山で食べられるものなどはどうやって学んだのですか。

三浦: 父が営林署の事務職をしていて、山にいる木こりさんたちに給料や手紙を届ける仕事をしていました。そのときに、僕もくっついて行っていたんです。当時の木こりさんたちは、半年山に上がりっぱなしが当たり前でしたからね。そこにいる人たちが、食べられるものをいろいろ教えてくれました。

タイ料理と三浦さんの子ども時代の経験がリンクして今のお店があると思うのですが、そもそも、タイ料理に興味を持ったきっかけはなんですか。

三浦: タイには、2014年から自分のスキルアップのために通い出しました。きっかけは、東日本大震災に遡るんです。野菜の入手が大変になって、伊那から仕入れるように。その後、農業研修のために北海道へも行きました。トラクターはそのときに乗れるようになったんですよ。その後、伊那へ戻って自家栽培を始め、育てた野菜が余るから、漬物をつくり始めた。それで発酵のことにいろいろと興味がわき始めて。調べていくうちに、タイやラオスに漬物のルーツがあると知り、タイに行くようになったんです。長野は冬を乗り切るため、東南アジアでは高温で腐らせないための発酵。背景は違うけれど、食材を生かすことは共通している。タイの技術を日本の里山に持ってきたらおもしろいと思いました。  それに、タイ料理は、常に隣接する国々や交流している国の影響を受けて自分の文化に取り込んで料理にしちゃう。その柔らかさが魅力です。そういった姿勢は、自分がやってきたことと共通していると思える部分でもあって、惹かれたんでしょうね。  ここ、GUUUTは2018年にオープンしたんですが、最初は東京の店と並行してやっていたんです。週末にこちらに来て畑をしながら料理も出していたんですが、コロナで東京と長野の行き来ができなくなったので、東京の店は閉めました。いずれ、こちらに帰ってきたい気持ちもありましたし、ちょうどよかったのかな。

東京と長野、両方でお店をやってみて、今ここでお店を開く「豊かさ」はどんなところに感じていますか。

三浦: 長野のほうがGUUUTのような店は受け入れてもらいにくいと思いますよ。でも、そういう保守的な環境にあっても、飛び抜けていい人、変な人がいるからおもしろい。  同じことをやっていても埋もれるだけだから、自分でちょっと変わったことを始めてみる。そのためにいろいろ考えて工夫する。知力と行動力を兼ね備えた人と出会えるのは、いいですよね。たとえば、赤そばをミャンマーから箕輪町に持ってきた人との出会いがあったから、箕輪町で店をやろうと思えた。今、その方は白いちごを生産していて、当店の料理にも欠かせない食材です。

発酵技術は、
食材を生かしきる術

「里山タイ料理」がGUUUTのコンセプトですが、里山とタイ料理が融合した料理にはどんなものがあるのですか。

三浦: タイ北部の山の料理を取り入れているんですが、彼らは山から採取してきたものを乾燥させたり、発酵させて使うことが多いです。塩味が多いですが、すごく優しい。山のものを採取して上手に酸味や甘みとして使っているものも多いですね。  今この部屋にあるものでいえば、ニジマスを塩と米ぬかで発酵させた調味料だったり、納豆を団子にして潰して乾燥させて、さらに炙って粉にしてつくるトゥアナオとか……。そういった手の込んだものを、タイの地方に行けば家庭で当たり前につくっている。それは、今の日本ではあまり見られない光景でしょう。でも、とても豊かなことだと思うんです。  そして、僕がこうやってつくっている料理の良さは、やっぱりなんと言っても体が喜ぶこと。品数はたくさん出しますが、次の日とても体が軽かったっていう人が多いです。そう言ってもらえるのは、嬉しいです。

一人でやりきるのではなく
手を取り合って取り組む道をつくる

イタリアンやフレンチだとローカルガストロノミーの文化が浸透してきましたが、タイ料理では珍しい。でも、お話を聞いているとタイ料理だからこそ、この土地で実践する必然性があるのですね。

三浦: そうですね。こんなふうに、自然を背負った状態でやっているタイ料理店は、うちだけだと思います。でも、技術的にそんなに難しいことはやっていないんです。発酵食は、仕込みというよりは、手入れに気を使わなければいけないですけどね。もっと里山にある食材について広めて、いろいろな人に活用してもらいたいです。

本も出版されましたし、「伝えること」に重きを置いているんでしょうか。

三浦: 今は、月に1、2回東京でポップアップで料理をする機会もつくっています。講演会も積極的にやっているし、認知度を上げたいんです。理由は、ここに来られない人にも知ってもらって、後継者を育てたいから。60代になって、自分でできないことが増えてきている。農業、山へ入っての採取、仕込みなど、今やっていることを次の世代に残していきたいと考えるようになりました。  全部をやりたい人はなかなかいないけれど、コロナもきっかけになって、料理人が地方へ散りましたよね。それは追い風だと思います。「目的地になるレストラン」というスタイルがありなんだと若い人たちが希望を持てればいい。あとは、分業制で成り立っていくように仕組み化することも必要です。  農業から料理の提供まで、僕は今1人で全部やっていますが、それは気が狂っていないとできない(笑)。1人で全部できなくてもいいし、グループなり法人なりで取り組んで、持続可能な事業にできればいいですよね。  レストランという枠に収まらないで、土地の産物の出口をちゃんとつくる。「フードテクノロジー」いうことに要約されるんでしょうけど、自然の恵みをちゃんと生かし切るような技術を残していくために、活動していきたいです。

聞き手:宮坂勝彦(宮坂醸造)
文:小野民
写真:土屋誠

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